プリンスとイタリア 板谷熊太郎著

2012年06月24日

大正15年生まれの僕の父は兵役に取られることはなかったが、戦後のごたごたを乗り越え、昔からの生業であった工場を継ぐことになる。工場は鍛造という方法で鉄の部品を造っていた。鉄はハンマーなどで叩いて圧力を加えることで強くなる、そう、鍛冶屋だ。現代の鍛冶屋は大型プレス機械を使って材料を叩く。僕の父が造っていたのは自動車のエンジンの心臓部であるピストンの一部、コンビネーションロッドと言われる部品。この部品を使っていたのがプリンスのグロリア。つまりこの本に出てくるプリンス・スカイラインスポーツはグロリアのエンジンを搭載していた。後に日産となるプリンスは特に部品の受け入れ検査が厳しく、親父も返品の山に悩まされ続けたらしい。本書にもかかれていた、技術のプリンスというのはこういう下請け業者への要求にもおよんでいたが、もちろん要求される方もそれに応えるだけの技術を磨いてゆくのである。元々オートバイのメーカーだったホンダが4輪車の開発に乗り出したころ、親父の口癖は「所詮、日産トヨタにはかなわねぇよ」だった。

日本の自動車メーカーの歴史の中でも、プリンスの業績といえばS54スカイラインや日本グランプリのR380ぐらいが目立つところで、それ以外はあまり語られることの無かったスカイラインスポーツ、CPRB、1900スプリントという3台のクルマを軸に本書は語られる。これらに関わったプリンスの技術者、井上猛氏とイタリアン・カロッツェリアとの開発の物語を丁寧に綴っている。僕も過去にシトロエン3台、ランチア1台、アルファロメオ2台、フィアット2台、MG1台を乗り継いできたクルマ好きなので、本書のバックボーンはなんとなく理解できるが、全くのクルマ初心者の方には、いささかこの本の内容は説明不足な部分があると思うので、ちょっと補足したい。

現代のクルマのボディはモノコックと言って、車台(シャシー)と車体(ボディー)は一体化して造られる。これはひとえに軽量化のためといえる。ところが昔の自家用車はトラックやバスのように井桁型のシャシーにタイヤとエンジンをくっつけ、それに車体を乗せる構造になっていた。だからシャシーさえあれば、全然形の違う車体をこさえて乗せてしまえば、簡単に別のクルマができてしまう。これをやっていたのがイタリアン・カロッツェリアだ。フェラーリのデザインで有名なピニンファリーナやベルトーネ、ツァガート、ギアといったところか。先の井上氏は単身イタリアへ飛び、このイタリアンコーチビルダーの技術を学ぶ一方、プリンスのスペシャリティ・カーの制作を依頼するという使命を帯びていた。1950年代〜1960年代の自動車デザインは、やはりイタリアが僕も最高だと思う。世界各国の自動車メーカーもこうしたイタリアン・カロッツェリアにデザインを依頼していた時代、日本では他にさきがけプリンスが名乗りを上げたのだろう。

それにしても、全く新しい使命を帯びて渡伊した井上氏の年齢は57歳。今の僕よりも8歳近く年上であるのは驚嘆に値する。そのバイタリティは気難しいイタリアのデザイナー達を動かしてゆく。やはりあのころの日本人は凄いなと思わせる。頑固者の僕の親父も仕事から帰ってくるのは毎晩僕ら子供達が寝静まった深夜だった。そういう父を見て、僕ら兄弟二人とも迷うこと無く技術者の道を選ぶことになった。だから本書に出てくる、イタリアの板金職人サルジョット氏と日本人の職人とのエピソードは、こころが熱くなる。言葉が通じなくても職人同士ならわかり合えるのである。

ただ、残念ながら著者の板谷氏ははじめての執筆ということで、非常に読みづらいものとなってしまっている。4行ほどの文章を5,6回も読み返してやっと意味が分かる、という部分も会った。本の分量としてはかなり少なめだったが、読むのに時間がかかったのはそのせいかもしれない。それから先ほど補足したような内容が予め説明されていないと、よほどのカーキチで無い限り読み進めるはなかなか難しいと思う。それと時間軸が前後するので、時代背景がぼやけてしまった。年表のような補足資料も欲しかった。とても興味深い題材だし、貴重な資料が多数込められているがそれが生かしきれていないのが少し残念。


プリンスとイタリア: クルマと文化とヒトの話
  • 板谷熊太郎
  • 二玄社
  • 1890円
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書評




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